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「結晶体としての私」

 バイオ・テクノロジーによる身体操作の進展、高度情報化社会における仮想記憶領域の拡大といった状況を背景に、1990年代以降、アートにおいて身体の物質性と生命の関係をテーマとする傾向が再び強く現れてくるようになった。キキ・スミスやマシュー・バーニー、あるいはダミアン・ハーストやマーク・クインといった作家たちは、肉体の生々しさをさらけ出し、物質を操作し改変して、ある種不気味な身体を提示することで、私たちに生命を意識させてきた。

蓮にも種子にも見える殻に眠る胎児、イノシシと白鳥の混交、葉で全身を覆われた鹿。植松琢麿がこれまで作りだしてきた作品を言葉にすると、そのような1990年代以降の傾向との類縁性を示しているかのように思われる。しかし、それらと植松とが決定的に異なっているのは、その身体と生命との関係性の捉え方である。言い換えれば、自己とそれを取り巻く世界との関係性の差異である。

生物学は、種と目による分類を原則とし、異種間の混交によるキマイラは、奇形であり異種であり、観察者たる人間とは別のものとして厳密に区別される存在である。それは、他者とし人間を脅かすかもしれないが、常に彼岸の客体でしかない。一方で、植松の作品に見られる世界観では、生命と身体の関係は常に流動的である。自己=人間も含めて世界のあらゆる物質は緩やかに繋がっており、視認される状態は変転し続ける世界の様態の一瞬の姿でしかない。生命はあらゆる物質に宿る可能性を有しており、物質は他のあらゆる物質と接合し新たな状態を生み出す可能性を有している。そうして世界は常に変転しながら新たな可能性へと開かれているのである。 植松が作品タイトルに「輪廻」や「クリスタル」という言葉を用いてきたことも、そのような世界観を強く伺わせる。この瞬間、人間という姿をしているこの私は、この姿になる前には一本の木であったであろうし、この人間の身体が機能を全うした後には、私は一匹の虫であろう。生命はかくして世界を漂い、生命と物質が照応して私は一つの「結晶体」となる。この世界が、進化論的な系統樹世界とは全く異なる構造を有していることは言いまでもないであろう。生命と物質の離合集散からなる世界は、起源も終焉もなく繋がっている。そう、メビウスの輪のように。

私は世界に含まれ、この私の中に全世界は含まれる。このような観点に立つならば、植松の作品はキマイラ的標本などではなくて、私がそうでありえたかもしれない可能性の造形であることが理解されるであろう。それは世界の創造的更新を希求するアートの創造性なのである。

平芳 幸浩 (京都工芸繊維大学 美術工芸資料館)
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